『現代思想 フェミニズムの現在』に収録されている千田さんの論考「『女』の境界線を引き直す―『ターフ』をめぐる対立を越えて」を読みました。いろいろと問題を感じましたが、それ以前に非常にわかりにくかったので、その点について簡単にまとめておきます。
同業者の小宮先生にまで批判される始末である。
ものすごく好意的に読むとすれば、次のような筋を読めなくもないかもしれません
- トランス差別に反対する人たちと、その人たちに「ターフ」と呼ばれる人たちが対立しています。
- 「ターフ」と呼ばれる人たちの主張にも一理あるし、彼女らもトランスへの差別意識を持っているわけではありません。
- 時代はジェンダー論第三段階で、社会は性別二元的な仕方ではなく分割されるようになってきています。その方向で多様性を尊重しましょう。
- そのためには「ターフ」という対立を生む言葉で人を攻撃すべきでありません。
けれど、こうして好意的にまとめて見るとよりはっきりするのは、「ターフ」と呼ばれる人たちがどんな発言をしていて、それらがどうトランス差別的であると言われているかについての考察が、この論考にはまったく存在していないということです。
これは、「誰がターフなのか」という「対立」が主題として設定されたことにかかわる問題だと私は思います。トイレや風呂の問題にせよスポーツの問題にせよ、トランス女性を排除する言説があって、「ターフ」という言葉はそれに対する反発として使われているものです。2節後半で提示されているトイレやスポーツに関する千田さんの主張も、そうした排除の言説を批判し、それを乗り越えるためのものとして提示されていたら、もっと違った受けとめ方のできるものになっていたかもしれません。
けれど、この論考はトランス排除の言説から出発するのではなく、それへの反発である「ターフ」という言葉の使用を出発点にして「対立」を捉えています。その結果、トランス差別についての考察が抜け、実際にどんな「対立」があるのかは不明瞭にされたまま、「ターフ」という言葉の使用だけが批判されるというアンバランスな議論になってしまっているように思います。出発点がおかしいのです。
やっぱり査読は必要なのではないですかね