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なぜ日本人は「自粛しない人」をこれほど攻撃したがるのか 「コロナ自警団」が生まれる背景

現在のところ、政府や自治体から発信されているのは、あくまで「自粛要請」というお願いベースの申し出に過ぎないものである。「お願い」である以上、本来ならばこちらにはその申し出を断る自由があるはずなのに、そのお願いを聞き入れなかった者は、まるで社会の法秩序を逸脱した犯罪者・極悪人であるかのようにみなされ、市民社会から「私刑」される——そのような相互監視的な同調圧力によって、緊迫感と閉塞感が高まりつつある。

いま世間は、緊急事態宣言に乗じて、いわば「コロナ自警団」「コロナ八分」が台頭する様相を呈してきている。

これからもずっと、当たり前に存続していくと信じていた「ただしさ」が動揺し、強い不安に駆られた人びとは、必死に「ただしさ」を修繕しようとする。自分の「ただしさ」の崩壊を食い止め、これを保障してくれるなにかを探し求める。目下のところ「ただしさ」の保障を求める人びとの多くに採用されているのが「ただしくないもの(悪)」を探し出してこれを叩き、相対的に自分たちの「ただしさ」を担保するという方法論だ。

だが翻って、当局からの「自粛要請」をまるで「命令」であるかのように引き受けて忠実に守るばかりか、「感染者」や「自粛違反者」を犯罪者のように率先して叩き、差別的に取り扱うような「コロナ自警団」「コロナ八分」が跳梁跋扈するような社会だからこそ、諸外国に比べてこの国の感染拡大は比較的緩やかになっている側面があるのだともいえる。

私たちはいま「すべてにおいてただしい決断」をしているわけではない。ある側面を守るために、別の側面を犠牲にするという「苦しい取捨選択」を連続して強いられているのだ。未曽有の混沌のなか、いまこの社会で起きていること、採用された行動——その光と影の両面を冷静に評価しながら、よりよい方策を模索していくことが望まれるだろう。