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男性の役割から降りても救いはない

山形さんの記事とかバンクシーの記事についたコメントとかを見ていても、要するに思想上の左右を問わず「俺はお前より頭いいぞ」「俺はお前より上だぞ」とマウントとりたいだけの人がたくさんいるということがよくわかる。そういうの見てるととても疲れる。だから自分はそういう男性社会から降りて障害者になった。障害者になって8年目だ。現在年収100万程度で将来もどうなるかわからないけどとりあえず生きている。簡単な事務仕事をして、食べて寝て、ネットをしてゲームをして本を読んで、毎日薬を飲んでたまにカウンセリングに行く、そういう当たり前の生活。

男というのは物心ついたときから男性社会の競争にさらされる。出会った男たちは、最初に顔を見合わせた瞬間に私を値踏みして、「俺の方が上だ」という態度を出してくる。そんな人たちがほんとにたくさんいた。「増田くんって変な顔だよねw」という。そんなことが幼稚園の年長から高校1年くらいまで断続的に続いた。

幼稚園の年長で東京に引っ越してきたとき、すぐに自分はいじめられ始めた。なんでだかはよくわからないが、群れた男たちが執拗に攻撃してくる。自分はいつも女の子たちに助けてもらっていた。それは今でも変わらない。ということもあってか、今の職場は女性ばかり。そういう職場を選んだ。男はめんどくさい。男は私を見るとまず最初に「俺の方が上だ」とアピールしてくる。こっちはそんなことまったく興味ないのに。障害者になってさすがにそういう面倒な場面はあまりなくなってはきたけど。とにかく競争から降りるに限る。ただ、そこに救いがないということは言っておきたい。

ジェンダー関係に意識の高い人たちは男性の役割から降りていいんだよと無責任にいう。降りた私は障害者になった。障害者雇用で働いている。年収100万だ。男性の役割から降りると年収100万になってしまう。別に障害者になれとは言ってないというだろうけど、男性社会でやっつけられてしまった私みたいな男というのはトラウマを負っている。障害者手帳を取るかどうかは別の問題だが、障害者相当のコミュニケーション能力の人は多いだろう。

私が障害者になってしまったせいで妹の結婚もだいぶ遅れてしまった。幸い、理解のある人と出会えて結婚できたので良かったけれど。でもそれもたまたま運が良かったからだ。妹は私の存在を友達にも話せないと泣いていた。女社会でもやはりマウントの取り合いというのはあるのかもしれないとふと思った。

とにかく私が男性の役割を降りて障害者になったことで良くなったことは何もない。収入が増える見込みはないし。世の女性たちが求めているのは強い男性だ。男性社会で勝てる男が求められている。そういう現実がある中でジェンダー関係に意識高い人たちが男性の役割から降りてもいいのよと無責任にいったところで誰も聞きやしないだろう。そういう無責任なことをいうひとたちは年収100万の障害者として生きていくということがどういうことだかおそらく何もわかってはいない。つまり、彼らは実質的に存在しない選択肢をあたかもそれが選ばれるべき一つの有効な選択肢として存在するかのように偽装している。これはとても不誠実な議論だ。

「年収100万の障害者でもいいじゃない! それが多様性よ!」という返事はありうる。でもそれを世帯年収1000万以上の既婚者がいうのは何かおかしい気がする。自分にはそういう感覚がある。売れてる作家やテレビ局のアナウンサーやタレントやジャーナリストなどが貧困問題を語っているのも何か滑稽に見える。彼らは何も知らないだろう。年収100万の障害者として生きることが机上の空論によって肯定されてしまっても困る。「きみたちは永遠にそこに甘んじていれば良い」といわれているようにしか聞こえない。彼らは言論ゲームに勝ちたいだけで弱者の声になんか興味がないんじゃないか。あるいは弱者の味方として自分のイメージを作って金儲けに利用したいか。

男性の役割から降りるということはジリ貧な人生になるということだ。それは人によっては死んでるのと同じだと思うかもしれない。絶望して自殺する人もいる。そういう状況をジェンダー関係に意識高い人たちは簡単に肯定してみせる。「それでもいいじゃない! それも人生の形よ! 多様性よ!」本当にそうなのだろうか?