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「多様性の尊重」というスローガンは捨てた方が良い件

これについて今回の記事では、この「多様性の尊重」というスローガン自体に重大な問題があり、むやみに使わない方が良いということを説明します。(念のためいうと、「多様性を尊重すること自体がいけない」という真逆の主張をしたいというわけではありません。)

このように考えると、この事例で制服を撤廃する理由として本当に重要なのは、実は「服装の多様性」などではなく「生徒の自由」だということになります。大切なのは服装ではなく人間なのですから、当たり前の話です。ところが「多様性の尊重」というスローガンばかりで頭がいっぱいになると、こういう当たり前のことを忘れて、「人間」ではなく「状態」を真っ先に大切なものだと思ってしまう危険があるのです。

公教育を受けるのは子どもの権利なのですから、このように公教育の対応策が求められるのは、個々の子どもの教育を受ける権利を保障するためであって、別に「多様性」という状態を「尊重」するのが目的ではないでしょう。

似たようなことは、障害者の就労支援などでもいえるでしょう。たとえば企業の事業所の施設をバリアフリーにするのは、「多様性を尊重」するためではなく、障害を持った労働者が安全に働く権利を保障するためなのです。

このように、「多様性の尊重」というスローガンにとらわれすぎると、人間の権利や自由という本質部分をいつの間にか忘れて、単なる「状態」「性質」を尊重すれば良いかのような、本末転倒で人間不在の発想になってしまう危険があるのです。

「多様性を尊重することは正しい。そして、犯罪も多様性のひとつなのだから認めるべきだ!」は論理的には完全に正しい。正しくないとすれば「多様性を尊重すること」が間違っていることになる。

結局のところ、前提が間違っているというだけの話ではないのか。

この「多様性の尊重」というスローガンに引っ張られて、人間不在の発想になってしまったグロテスクな例が、ネットでの議論でも見受けられるようになりました。

「犯罪や貧困もあるのが社会の多様性ではないのか」

「男尊女卑の文化や地域もあるのが多様性の尊重だ。すべての地域が男女平等になったら多様性がなくなるじゃないか」

「差別や偏見を全部否定したら多様性がなくなる」

要するに「多様性の尊重」ではなく「個人の尊重」が重要だったのです。人間は一人一人違う存在なのですから、個人というのは言うまでもなくもともと「多様」です。つまり「個人の尊重」は「多様な個人の尊重」というのとイコールであり、わざわざ「多様性」という言葉を使わなくても、「個人の尊重」と言えば良いだけだということなのです。

この結論だと、殺人に幸福を感じるシリアルキラーや幼児にしか性的興奮を覚えないペドフィリアは尊重されるべきなのかという話になるのでは?

しかしながら、そんなものは当然尊重されるわけがない。

では、個人の尊重とはなんなのか?

他者を害する価値観は尊重されるべきではないのであれば、それは最早社会の要請でしかなく、そこに個人の尊重などあり得ない。

「尊重されるべき多様性」と「尊重されるべきはない多様性」を区別するなら、それは多数派からの差別に過ぎず、「個人の尊重」など単なるお題目でしかない。

結局は社会から要請される「一般的な価値観」を「個人」と呼び替えているに過ぎない。

そこを直視できないものは生涯己を騙して生きることになるのだ。