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『男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか』

具体的には、「情報の蓄積と伝達」「分業、専門化」「交換、交易」といったことをより効率的に実現できる文化の方が、生産力を上げて集団の人口を増やしやすい。

また、文化が効率的であるいうことは、たとえば「集団の人口を増やす」という目的を達成するために、その集団の構成員をより効率的に利用・搾取する方法を編み出している、ということである。文化は集団を存続させることに貢献するものであるが、個々の構成員を幸福にするとは限らない。

そして、他の文化との競争に勝って現在まで生き残ってきたような文化は、生産や秩序や発明を効率的に達成するために、男性を搾取してきた。

そもそも、「集団の人口を増やす」という観点からすれば、女性は一人につき生涯で出産できる数に限りがあるために、女性の数は多ければ多いほどよい。一方で、一人あたりの男性の精子はほとんど尽きることがないから、多数の男性が必要ということはない。つまり、男性の生命は、女性の生命に比べて価値がないのだ。

この本のなかでよく引用されるのが、レズビアン女性でありながら一年弱のあいだ男性に扮して「男として生きるとはどういうことであるか」を体験した作家、ノラ・ヴィンセントによる Self-Made Man という著作だ*2。フェミニズムの考え方に影響されて「男として生きるということは、特権にあずかれてラクなことであるに違いない」と考えていたノラは、実際には「男性としての人生」は熾烈な競争にさらされており、誰かが世話したり構ってくれたりすることもなく、自分の存在価値を自分自身で証明しなければならないものであることを発見して衝撃を受けたのだ。

ジェンダーに関する議論は、フェミニズムのものにせよ「男性学」や「弱者男性論」のものにせよ、自身が性役割に苦しんでいたり性規範を不愉快に思っている人たちによって主導されることが多い。そのため、性規範や性役割のミクロなデメリットが強調されてそれらを解体する必要性が論じられることが多く、性規範や性役割が社会にもたらすマクロなメリットについては無視されてしまいがちだ。

一方で、バウマイスターの議論では、消耗品として文化から使い捨てられる「負け犬」男性たちに対する同情は強く感じられるものの、男性が「男らしさ」への渇望を捨てて社会から競争が失われたり、いざという時に自分を犠牲にして身近な人や社会を守ろうとする人がいなくなることについての懸念も強く示されている。性役割やジェンダー不平等の「罪」だけでなく「功」についても紙幅を割いているところが、文化進化論の枠組みを採用したこの本ならではのオリジナリティだと言えるだろう。