/note/social

日本人がもっと、ミル『自由論』と「他者危害原則」に学ぶべき理由(児玉 聡)

日本は自由主義国家のはずなのにその基本原則である他者危害原則をジャーナリズムも大学教授も知らない、という批判である。

たしかに、個人の自由は最大限に尊重されるべきだ。しかしその一方で、放火や殺人など他者に危害を与える行為は規制されなければならない。だとすれば、政府が規制してよい行為と、そうでない行為の一線はどこにあるのか。これは、倫理学や政治哲学で最も重要な問いの一つである。

この問いに対する自由主義者の答えは、他者危害原則である。その意味で、他者危害原則は自由主義社会における基本原則だ。この原則は、ポルノ規制や喫煙規制だけでなく、今日の「自粛警察」や同調圧力の是非など、個人の自由の制約が関係する議論においては、必ず参照されるべき原則と言える。ただ、日本の高校の教科書では民主主義は教えても自由主義や他者危害原則は教えていない。

言いかえると、他人への危害を防止する目的以外では、個人の自由の制約は許されない。これが他者危害原則である。この原則を理解するうえで、重要な点を列挙しておこう。

第一に、すでに見たように、他者危害原則は、政府だけでなく、社会(世論)による干渉にも当てはまる。したがって、現在、自粛警察とか同調圧力と言われているものに関しても、他者危害原則は同じように適用される。

第二に、ある行為が当人の利益になる/ならないという理由から、自由を制限することはパターナリズムと呼ばれるが、ミルが上記の引用に続けて、「彼自身の幸福は、物質的なものであれ精神的なものであれ、十分な正当化となるものではない」と言うように、パターナリズムは認められない。

第三に、ミルはこの原則は未成年のような未成熟で他人の保護を必要とする者には当てはまらないと考えている。つまり、未成年へのパターナリズムは許される。冒頭で紹介した加藤が言うように、「自由主義の原則は、自己決定の権利をもつ大人と、その権利をもたない子どもの厳格な権利上の区別を前提にしている。」(前出7頁)。

第四に、ミルの言う「危害」に不快は含まれない。ミルの出している例で言えば、イスラム教徒は戒律により豚肉を食べることが禁じられており、他人が豚肉を食べることに対して大きな不快感を抱く。だが、イスラム教徒が過半数を占める国のなかで豚肉を食べるのを禁止することは、それがいかに不快に感じられることであっても許されない。

第五に、同意していなければ危害に相当することであっても、当人同士が同意していれば、危害にはならない。たとえばミルの挙げている例ではないが、受動喫煙や、サドマゾヒズムがこれに当たる。

最後に、ここまで述べてきたミルの他者危害原則は、個人の言論や行動の自由に当てはまるものであり、経済活動における自由主義(いわゆるレッセフェール)を説くものではない。これはまた別個の議論が必要な領域だとミルは考えている。