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マガジン限定記事「闘争と融和」

苟(いやしく)もこの国が文明社会の一員であるというのであれば、すべての人に障壁をつくることのない社会を――実現できていないにしても――目指して不断の努力は続けられるべきであるだろう。この点については、ほとんどの人が異論を持たない。

他方で、あらゆる鉄道駅で人的・設備的な投資を十全に行ってバリアフリーを達成することは現実的に困難でもある。営利企業たる鉄道会社のリソースは有限である以上、あらゆる駅に対応できるよう余剰人員をつねに設けるようにしてしまえば、たちまちコストが超過してしまい、バリアフリーの駅が増えないばかりか、無人駅がさらに増え、あるいは路線が整理されてしまうなどといった、望ましくない帰結が生じてしまう。バリアフリーと経営の合理化は、理想論としては両立されるべきだが、しかし現実論としてはトレードオフの概念となっている。

しかし難儀なことではあるが、「交渉力」を高めることをひたすらに希求していくのが、被差別者・被抑圧者にとって、議論の余地のない正解であり最適戦略であるかというと、必ずしもそうではない。なぜなら、被差別者・被抑圧者側という少数派の勢力など、その気になれば既得権益側はいつでも粉砕してしまうことが可能だからだ。「交渉力」は獲得しつつも、しかし「塩梅」を見誤らないという、絶妙なバランス感覚が重要となる。

既得権益側が、いくら「交渉力」を得て勢いづいていようが、少数派の人びとをたやすく踏みつぶしてしまえることは、香港やミャンマーやロシアでいまなにが起きているのかを見れば容易に想像がつく。今日の人間社会にける権利拡張運動では「闘争しつつ融和する」という戦略が肝要となる。

日々の生活をどうにか送るので精いっぱいの人が大部分を構成する「弱い強者」側の人は、駅員が高い政治力を持つ「強い弱者」によって責め立てられ疲弊する姿を想像して、自分が「労働者」として味わう理不尽な日々をそこに重ね合わせてしまう。