死に近づかなければ生きられないというのは、男性性の本質的な部分だ。
私は以前、女性性は社会を構築しないと言ったし、他の人も似たようなことを述べている。
また、女性の哲学者は少ない上に、ほとんどフェミニストだったりする。
これらはすべて、この男性性によって説明できてしまう。
メチャクチャ差別的であることを承知で、あえて暴言を吐こう。
「女は生得的に、愛という感情を習得しにくい」
愛と名付けられる女の子は多数いるが、実際に愛の実践者になる女性は圧倒的に少ない。
むしろ自然体に近づくほど、その残虐性が際立ってくる。
なぜそうなるのか。
そもそも男のいう愛、そこから生じる社会性とは、死を起源としているからだ。
人はいつか死ぬ。
死んだらすべてが無になる。
いや、そうではない、自分が死んでも「何かが残るなら」それは無意味ではない。
意味という幻想のために命を使う。
愛とはそのようなものだ。
そのためのストーリーが血縁であり、宗教であり、愛国心であったりするわけだ。
しかし、既に身体に不死が刻み込まれた女達には、そもそもそうした幻想自体が不要である。
だから彼女らが感じる愛というのは、自己愛だけでもなんら矛盾しない。
男性的な愛への理解は、実に後天的である。
だからこそ「三度生まれ変わっても成仏できない」などとまで言われてしまうのだ。
しかし……
不老不死や人工子宮ができて、男性も自分だけを愛せばよくなった時、何が起きるだろう?
社会を成り立たせるのは愛なのに、それが根本から損なわれてしまうのではなかろうか。
私は「生存」と「幸福」と「意味」のトリレンマがあると考えている。
私が不老不死や人工子宮と同じくらい、フルダイブVRが必要だと訴えるのも、これが理由だ。
幸福と意味を両立させれば、私達は生存を失う。
生き残るためには生存と幸福を取り、意味を捨て去る道を選ぶしかないのではないか、と。