「怒り」は発散を目的とした娯楽で、怒る理由は「何でもいい」。
また「怒っている間は思考停止し、新しい考えが浮かんでくることはない」ので、我を通すためにじたばたするのとあまり大差ない。
「怒る自分を宥めるために、相手が引いてくれるのを待つ」のは子供が親に駄々を捏ねるのと概念は同じ。
「ここでは、こんなに自由に怒っていいんだ…」
COP26で海外のアクティビストたちとのストライキに参加して思ったのは、怒っていい社会にいる心地よさだった。
そこには、怒りをオープンに表しても受け止め、賞賛してくれる人々がいた。
一方、日本社会はどうだろうか?
「自分のために怒っているのではなく、社会や自力救済できない別の誰かのために怒っている」というときも、「怒り散らして駄々を捏ね、自分の意見は一切引っ込めずに相手にだけ譲歩を強いる、その役割を【代行している】」ってことになるんだけど、それで自分が譲ることなく相手に譲歩させる娯楽だし
ともあれ、「怒っている人とは話し合いができないし、対話も交渉も駆け引きもできない」ので、怒りが落ち着くのを待つか、怒っている人を排除して怒っていない人を窓口にするかしない限り、話が進まない。
その意味で、「怒る人」は物事を進める障害にしかならないとは常々思う。
「怒り」や「義憤(のようなもの)」は金の掛からない貧者の娯楽であり、ある種の精神の麻薬である。
「怒って」さえいれば自分が正しい側にいるような気になれるし、何か大きな物語の一部になった気にもなれる。
そうすれば惨めな現実の自分を直視しなくて済むし、現実と折り合いを付けながらひとつずつ問題を解決していくという地味だけど大切な仕事をしなくても済む。
そうして「怒る」ことに人生を費やした後に残るものは虚無だけなのだ。