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キラキラ・ダイバーシティの終焉:オープンレター「炎上」異聞

[...]①そもそも彼女にはレターの「呼びかけ人」になったという意識はなく、最初期の段階で賛同を表明したところ、レター自体の起草者にも見える当初18名の発起人欄に掲載されたということだった。かつ②レターがGoogleフォームを使って広く署名を募集し、公然かつ大々的にさらなる賛同人を集めていること(最多時に1316名)は、前日のメールで私(與那覇)に指摘されて初めて知ったという。

上記から推測できるのは、いま16名となっているオープンレターの「呼びかけ人」の内部でも、関与の度合いの差は大きいだろうということだ。たとえばレターの炎上をより加速させた「勝手に名前が掲載されていたら、本人が自分から申し出てください」(大意)との趣旨の呼びかけをTwitterで行ったのは、見落としがなければ隠岐さや香(名古屋大学教授)・小宮友根(東北学院大学准教授)・清水晶子(東京大学教授)の各氏らに留まる。

つくづく不思議なのは、これらレターの関係者たちがいまなお、多人数の連名での声明の公表やコピー&ペーストめいたツイート発信に終始し、個人として責任を引き受ける姿勢をまるで示さないことである。

たとえばレターの「文面」が呉座勇一氏への過剰なバッシング・名誉毀損になっているとする批判に対し、誰一人「その部分を執筆したのは私だ」と名乗り出て、反論するなり、訂正するなりといった行動をとろうとしない。不十分な本人確認に基づく署名集めの「運用」に関しても、「担当したのは呼びかけ人のうち私だ。批判を寄せるなら私のみにしてほしい」と述べて、名前を並べて載せられた他のメンバーを守ろうとした者はいない。

こうした彼ら彼女らの態度が意味するのは、オープンレターの名を掲げた実践がその出発点から、決して自らはリスクや責任を負うことなく、「女性差別を批判するスマートな知性」といったキラキラした自己満足的なイメージだけを追求していたという事実だろう。

[...]大義名分としては誰からも異論の来ない「女性差別的な文化を脱する」ことを謳うレターに署名することは、リスクなしにキラキラ感だけを得られる「コスパのよい方法」だったのだろう。

差別と戦うクールな市民のイメージという「美味しいところ」だけの饗応にあずかる目論見で、オープンレターなる社会運動もどきに飛びついた者たちは、まさに同じ理由によって、その運動(もどき)が批判を受け評判が悪化した際に、自ら「泥をかぶって」責任を引き受けようとはしない。自身の振る舞いについて反省の意を示したのは、呼びかけ人から降りた理由を(私の指摘を受けて)公に表明した礪波亜希氏や、Twitter上で支持撤回の意思を述べた若干の一般署名者しかいない。

言うまでもなく私たちは多様であり、そして多様であるからには困難が伴う。誰かにとっての自由や快適さは、他の誰かにとっての不自由であり不快さかもしれない。そうした前提に立ち、どうすれば対立しあう者どうしでも最低限の節度を守り、少なくとも殴りあいだけは回避できるかを模索する。それが、正しい意味でのダイバーシティを目指す態度だ。

これに対しダイバーシティをなにかキラキラした「絶対無謬で、見れば誰もが魅かれ、賞美するゴージャスなもの」だと誤認する人々は、その帰結として運動が危機に陥っても泥をかぶらず、ただ忘却に任せて逃げ切ろうとする。オープンレターでいえば、寄せられた「批判と対話しつつ」運動方針を改めてゆくのではなく、根拠不明な「公開から1年の節目に」なる理由で本年4月4日まで漫然と掲載を続け、その後はドロンとネットから消して隠滅を図るわけである。

大迫力すぎる