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研究は戦争を止められないのか

2月24日、目覚めると世界が変わっていた。ロシアがウクライナに侵攻し、全く大義のない戦争が始まったのだ。そして、その日、私は重要な研究対象の一つを失い、これまでの研究人生で構築してきたセオリーは水泡と化した。

紛争勃発前夜まで、私は「侵攻はない」と自信を持って主張していたのだ。しかし、侵攻は起きてしまった。その時、「私が知っている」ロシアは消滅し、私が構築してきた議論も崩壊した。自分の長年の研究は何だったのだろうか、そして人間は戦争を防げないのか、という絶望的な気持ちに苛まれた。

この戦争勃発で、茫然自失となっている社会科学研究者は少なくないらしい。たとえば、相互依存論で平和が維持できるとしていた論者は、相互依存状態が戦争を防がないという現実に衝撃を受けているという。また、核抑止論者は、核は戦争の抑止にならないばかりか、核を持つ好戦国が戦争を起こせば、その核が他国の介入をも抑止してしまうという現実に打ちひしがれているという。このような例は枚挙にいとまがないだろう。

それでは研究は戦争を止められないのか...。残念ながら止められないことは、今回の顛末からも明らかだ。

しかし、研究に意味がないのか、と言えば、そうではないと思う。研究はあくまでも起きてしまった事象を分析し、どうしたら戦争を抑止できるのか、より早く解決できるのかなどという問いに迫るものであるが、第二次世界大戦後の世界では、それらの研究がさまざまなアプローチからなされ、また、時代の変化に伴って新しい議論も次々に生まれていた。そして、かつての戦争や紛争を分析することで、その反省を次に活かすこともできていたと思うからだ。たとえば、今、ウクライナが大国ロシアに対して善戦しているのは、海外からのサポートに加え、2014年にクリミアを失い、東部の混乱を防げなかったことの反省を徹底的に分析し、その問題を乗り越えたからに他ならない。

研究は戦争を止められない。しかし、研究が果たせる役割もゼロではないはずだ。私の旧ソ連研究は一旦振り出しに戻ったが、また心新たに旧ソ連研究に取り組みたいと思っている。そして、今回の戦争にショックを受けている方々にも、ぜひそれぞれの分野で研究をしていただきたいし、この新しいパラダイムに挑戦できるのは総合政策的アプローチしかないと確信する。研究が世界平和に貢献できる日がくることを祈るばかりだ。

研究は戦争を止められないのか → 研究が犯罪を止められないのと同じで止められるわけがない、研究は学びや教訓を得ることが本義だろう。

戦争という国家レベルの事業で政治学や社会学などの人文系が及ぼせる影響力など誤差の範囲である。

それ自体は人文系の無意味さ・無価値さを意味するものではないが、そうであることは自覚しておくべきことだろう。