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社会学界隈における東大話法がマイノリティ排除的なのではないかという問題についてのメモ

(東大の)社会学系の先生から院生へハビトゥスのような形で伝えられ、そして院生同士でなされるコミュニケーションの特徴として、相手の議論を打ち砕いたり、破ったり、穴を突いたりすることに重きが置かれ、「結局のところ、こういうことでしょ」ということを強い言葉で言える人がその場を制するというものがある。

以下、さしあたりこれを社会学界隈における東大話法と呼ぶことにする(東大院生に限らず、東大社会学講座系の先生の下で学んだ人にも見られる話法である)。この風潮はおかしいとこの10年以上ずっと思っていたが、最近のマイノリティ研究者排除が起きかかっている社会学の現状を思うと、やっぱりこれは深刻な問題点だなと思っている。

東大話法がもたらす問題は、「結局のところ、こういうことでしょ」に行きつくプロセスで、多くの「これが常識」「これが社会というもの」「これが現代」という「常識」の押し付けが発生していることにある。そのような現状認識が、権威ある先生や先輩から「中立的な事実」として提示されるだけで傷ついているマイノリティはたくさんいるように思う。しかも、「これが学問の作法」という言い方で、色々なことが意味も分からないまま押し付けられ、自分の議論が「作法」に則っていないから考察するに値しないと遇され、「それを理解していないのはあなたが勉強不足だからです」の一言で封殺されるという権力関係がある。これで悔しい思いをし、女性差別やエスニシティ差別、セクシュアリティ差別、トランス差別なのではないかとモヤモヤし、いつか絶対あいつ(先生や先輩)を見返してやろうと思ったことがある院生は多くいると思うし、いまも再生産されているように思う。

メモ: