SNSを見ていると社会に対する2つの潮流を感じる。1つは「現実的な視点からより良い社会を段階的に作ろう」という立場ともう1つは「素晴らしい理想の下に社会を構築しよう」という立場だ。
前者が帰納的に合意を求めるなら、後者は演繹的に合意を求める。
特に最近のリベラル系の人達は「優れた思想」に傾倒する印象がある。あの人達の言い分では「在るべき社会像が既に出来上がっていて、後は人間がそれに対応できれば理想的な社会になる」という感じといいますか。
女性は、マイノリティは、〇〇人は、「こう在るべきだ」という「思想的理想」を求める。
だから、議論しても平行線というか往々にして「誹謗中傷じみた」批評を展開する。つまり感情的になっているんですね。
だってそうでしょう。「在るべき理想的な社会像」があるのにそれに反対する、懐疑の声を上げる人がいる。とても受け入れられない。そんな人間は「理想的でない」。
こうして酷い事件が起きることによって、よりそれが鮮明化したので特にその様に感じた訳です。
〇〇はこう在るべきだ、という発想のもと議論を展開するときに「何故それが正しいのか」という声を自らに課すことができなければ、虚しいだけだろうに。
自由主義や進歩主義っていうのは、本質的にそういうものである。