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白饅頭日誌:7月30日「暴力の対義語」

私が言論活動を続けているのは、この社会に自由があること、民主主義があること、それらの価値を守りながら、同時にそれらが50年100年後にもたしかに継承される持続可能性の担保に少しでも寄与できればとの思いがあったからだ。

そしてなにより、だれからも顧みられることなく、透明人間のように捨て置かれ、暴力や破壊でしか世界とつながることができない者たちのためにこそ、言葉を紡がなければならないと考えていたからだ。

昨今の流れは「やっぱり言葉なんか必要じゃなかったんだ」という、ある種の諦めが、世の中にきわめて芳しくない形で次々と噴出しているように見える。

言葉ではなにも解決しないなら、言葉ではなにも叶えられないなら、暴力に戻るしかない――と。

言葉は暴力の対義語だったはずだ。暴力を批判し、これを抑止し、社会から追放していくためにこそ、言葉が用いられてきたはずだ。

だが、近年の情況を見ていると、とてもそうは思えない。対義語どころか、さながら潤滑油である。

マクロではプーチン、ミクロではキャンセルカルチャー、いずれにしても、言葉は言葉として完結するのではなく、言葉を発する者が懐に秘めた暴力のナイフをこのあと相手に突き立てるのを正当化するための前口上として用いられるようになっていた。