たまに、と言うか実はツイッターやはてなで結構よく見るんだけど
フェミニスト、リベラルな筈の男性が、自分でもドン引きするくらい女性差別的な事やセクハラを女性に対してしている場面を見る事が有り、げんなりする
あと、そういう人は男性に対してもマッチョだったり、男らしさの押し付けをしていたりする
なんなんだろうね、あれ
アイドルや配信者やVTuber等に対してセクハラっぽい事を当たり前の様に言ったり、
意見の異なる女性やリベラルフェミニスト(リベラルフェミニズムは日本のフェミニストの多数派であるラディカルフェミニズムやリベラルと意見が対立しがち)に対してはかなり攻撃的にセクハラや、女性差別的な言動したり、
AV女優や風俗嬢など、性産業で働く女性に対して職業差別的な言動をしたり、
真剣にドン引きする(今日も見てドン引きした)
自分はオタクで表現の自由を尊重したい(勿論、エロやオタク表現だけじゃなく、表現の不自由展みたいなものや、政権批判等の自由も含めて守りたい派だよ)人間で、
フェミニストとは意見が対立することもあるんだけど、
ああいう人達程は女性差別的じゃないし、酷くは無いよ、と思ってしまう
自分は表現の自由を大切にしたいだけで女性を差別したい訳では無いし、女性差別は無くなって欲しいと思ってる。それにアイドルとか声優とかVTuberが傷付く事にはなって欲しくないので、セクハラ等の言動には気を付けている(最近は「かわいい」と言う事もちょっと気を付けるべきかなと思うようになってきた)
そう言う自分から見て、一部だろうけどフェミニスト男性、リベラル男性は本当にだらしない。セクハラもするし、女性と対立すればすぐにタガが外れて攻撃的になり、女性差別的な事も言ってしまう
別に意見が対立するのはいいけどさ、せめてああいうセクハラや女性差別的な言動はやめようよ
自分が「正しい側」にいることしか興味がないとそうなる。
自分が道徳的正しさを有しているなら何をしても許されるという思考になるのがそういう人々である。
「正しい側」とか「道徳的優位側」みたいな強者の立場に立つと自論の筋を通す必要はなくなり、恥知らずなチンピラムーブをするようになるというのは人間の性である。
キャンセルカルチャーに与する左派やリベラルのみなさん、なんで右派や保守が同じことをしないとか、キャンセル合戦になったときに自分たちのほうが勝つであろうと予測しているのか謎なんですが、自民党も巻き込んで右側からのキャンセルが吹き荒れたとき、たぶん学界ごとぶっ飛びますよ。
このへんの話に関しては「そもそも左は正しく右は悪いという非対称があるのだから、右が左に対して反撃するのは不当である」という運動理論をなぜか自民党や世間が受け入れてくれるという前提に立ってるのでブレーキがかからない、又はブレーキを踏もうとした者を粛清する構造なので止まらないのだ
あれほど安倍・菅・岸田の政権と自民党をぶんなぐって、選挙に負けに負けておきながら、きっと自分たちのキャンセルは理解されるはずって自信がどこから湧いて出てくるのか、それが知りたい……。
だからまあ、政権交代をめざすリベラル野党からはひそかに距離を置かれつつあるわけですよね。当たり前ですけど。問題はリベラル野党に維新に行かれるのも困るんでね。公務員の給料がシバキあげられてもしらんぞというね。
自称リベラルの人々「自分は常に正しい側にいる」という謎の自意識を持っているので、自己を顧みて内省することがない。
「怒り」は発散を目的とした娯楽で、怒る理由は「何でもいい」。
また「怒っている間は思考停止し、新しい考えが浮かんでくることはない」ので、我を通すためにじたばたするのとあまり大差ない。
「怒る自分を宥めるために、相手が引いてくれるのを待つ」のは子供が親に駄々を捏ねるのと概念は同じ。
「ここでは、こんなに自由に怒っていいんだ…」
COP26で海外のアクティビストたちとのストライキに参加して思ったのは、怒っていい社会にいる心地よさだった。
そこには、怒りをオープンに表しても受け止め、賞賛してくれる人々がいた。
一方、日本社会はどうだろうか?
「自分のために怒っているのではなく、社会や自力救済できない別の誰かのために怒っている」というときも、「怒り散らして駄々を捏ね、自分の意見は一切引っ込めずに相手にだけ譲歩を強いる、その役割を【代行している】」ってことになるんだけど、それで自分が譲ることなく相手に譲歩させる娯楽だし
ともあれ、「怒っている人とは話し合いができないし、対話も交渉も駆け引きもできない」ので、怒りが落ち着くのを待つか、怒っている人を排除して怒っていない人を窓口にするかしない限り、話が進まない。
その意味で、「怒る人」は物事を進める障害にしかならないとは常々思う。
「怒り」や「義憤(のようなもの)」は金の掛からない貧者の娯楽であり、ある種の精神の麻薬である。
「怒って」さえいれば自分が正しい側にいるような気になれるし、何か大きな物語の一部になった気にもなれる。
そうすれば惨めな現実の自分を直視しなくて済むし、現実と折り合いを付けながらひとつずつ問題を解決していくという地味だけど大切な仕事をしなくても済む。
そうして「怒る」ことに人生を費やした後に残るものは虚無だけなのだ。
落選の理由について問われ、「維新が大阪で非常に強くなってきた。“風”ということだけではなく、大阪で圧倒的な権力を持っていた」と維新の圧倒的な強さに屈したと一つ目の敗因を挙げた。一方で、「(アメリカの)トランプの現象見てて、ちょっと維新と似てるんじゃないか、と思った」とも口にし、「維新は攻撃することによって、憎悪を煽って、自分たちの勢力を作っている」と批判した。
自分達のやってることそのままなのだが、マジで自己を客観的に省みるということができないんだなと。
これも「自分達は正しい側にいる」と思い込んでいるやつである。
思想史屋の悪い癖だと思うのですが、「冷笑系」とか「逆張り」という用語については、それを使って人を指弾する側におそらく存在するであろう「歴史の正しい側にいるのはわれわれだ」感の方に「おもしろ」を感じてしまうというのはあります。
あと、対義語も気になるんですよね。逆張りの反対は順張りなんでしょうが、冷笑系の反対は?とか。熱血系?
そういう感覚、昔は当然もっとあからさまに言われていたわけだけど、今はあからさまには言わないけれどなんとなく前提にはなっている、という感じが面白いと思います。
某小田嶋隆とかから漂う「あの感じ」な
ヤフーニュースが、あのヘイト集積場みたいなコメント欄を収益源にしているのだとしたら、恥ずべきビジネスモデルだぞ。ぬかりなく糾合されたヘイトが、ページビューとターゲット広告とカネを運んでいる。本当にひどい話だと思う。
品行方正なコメントをウリにしてる人間が言うならともかく、自分だって政府や政治家の揶揄やヘイトでページビュー稼いで飯の種にしてるのにその言い草は笑ってしまうんだよね。
「自分は常に正しい側にいる」という根拠のない思い込みに自我を預けているとこうなってしまう。
国民も国民だよ......。もう自公に投票はありえないわ。維新も絶対ダメ。投票するくらいなら自宅で寝ててほしい。それくらいの気持ちです。
人間は自分は「正しい側」にいるという確信を持ってしまうと、このように容易に他人の自由意志や権利を奪いにいってしまう生き物なのだ
aの被害を訴えるとき、bの被害はどうなるんだ?という人の9割以上は、正しくaもbも扱え、と言いたいのでななく、bは扱わないんだろ?ならばaも扱うな、と言いたいだけだと死んだじっちゃが死んじゃった
なぜ、Aの被害を訴えると、じゃあBの被害も言え、となるのかがよくわからない…。
BLMに対して、all lives matterとか言う連中は100%それ。
何かを主張するなら筋を通せという極めて一般論な指摘をされているだけなのだ。
人間は自分は「正しい側」にいると錯覚すると容易に差別する側に回ってしまう生き物で、そういうところに注意が必要なのだ。
人文村民、もしかして「左翼」って言われるの嫌だったのかな(笑)
自分たちがただしくて、自分たちが市民社会で好感を得ている、ってマジで思っているっぽいんだよな。実際はそうでもないことをSNSで知ってしまって認知バグが発生し「私たちに反発する者はネトウヨ/差別主義者/冷笑系」みたいな感じでその認知ストレスを落ち着けようとしている。
「自分は正しい側にいる」という根拠のない信念を持っていて、他人もそう思っているに違いない、そう思わない奴は馬鹿にして構わないみたいな人は多い。
例えば、某小田嶋先生などはそういう傾向が顕著である。
ポリコレが間違ってるんじゃなくて、学級会をやりたがる奴の手に渡れば何だって凶器になる。
学級会やる奴はいつだって「自分が正しい側」にいることを証明したくて他人に迷惑をかけるものなのだ
自分の加害性を認めることが難しい人たちがいる。当人の資質もあるけど、きっとその人の属性が社会でどういう意味づけをされてきたかにもよる。
社会でされがちな意味づけを無批判に受け入れると、自分でも自分の属性を「加害しない属性」として意味づけてしまう。通念を強化していくというわけです。
善悪二元論の世界観を持ち、自分を「正しい側」に置こうとする人々のことだ。要するにリベラルとか左翼とかフェミニストみたいな人々。
自分のエゴや欲求から目を背けて「正しさ」を旗印に他者を抑圧しようとする21世紀のならず者である。
さかいのさんのホーム、マジで「今日は子供がこんなことできるようになった!こんなとこが可愛い!」「スタバの新作飲んだ。美味しい〜」「今週もがんばるぞー」とかの楽しそうだったりポジティブだったりするツイート一切ないんだよ。常に女は不遇だって喚いてる。すごすぎる
自分を被害者に位置付けておけば、自分は正しい側にいると思い込むことができる
私たちはいついかなるときも自分のことを「ただしい(good, right, safe, justice)」側へと置きたがる。
フェミニストはいま急速に「ネトウヨ」や「反差別組織」がはまり込んだ隘路へと突き進もうとしている。
これは最近強く感じている。
「ネトウヨ」やら「自称リベラル」やらの人々に共通するのが「自分は正しい側にいる」みたいな自己陶酔と、対立する者への憎悪。そして、自分達は迫害されているという被害感情。
このセットが揃えば人は簡単に扇動され、倫理の抑制は簡単に解除される。何故ならそれは「正義」の行いなのだから。
確かに世の中がやばくなってきた感じはあるな。
例えばね、誰かが「○○人は帰れ」と言ったとする。わたしは「レイシストは出て行け」と言う。相手は「出て行けなんて酷い言葉遣いですね」とか言い出すわけです。あくまで「レイシストは」なのだから、言葉遣いについて議論しても無駄です。青識の議論はこういう無駄な感じですね。
それは本質的にはレイシストと同じことを言っているのでは? という指摘なのだが、自分は「正しい側」にいると思っていると「自分が設定した敵を叩くのは正義。なので茶々を入れられる筋合いはない」になってしまうのが人間のバグなのだ。
古今東西、虐殺は悪意によってそれが為されたのではなく、己の善性と正義を信じたが故に為されたという史実を忘れてはいけないのだ。