15世紀に生まれた活版印刷を、オスマン帝国はほぼ即座に禁止した。結果、オスマン帝国の成人男性の識字率は19世紀になっても数%で、産業革命では欧州に大きく遅れた。似たような話は歴史上たくさんある。
これが「道徳的に問題があってもAIを使うのか?」という質問への、俺なりの答えかもしれない。
西欧や北米で鉄道が爆発的に発展していた19世紀半ば、東欧やロシアの支配者層は鉄道敷設に及び腰だった。兵力を素早く移動できるという利点は認識していた一方で、人々の自由な移動により農奴制が崩壊することを恐れていた。
結果、ロシアは経済発展で出遅れ、20世紀初頭には共産主義革命を経験する。
ここには、いわゆる〝トロッコ問題〟が存在する。「法的」には許されているとはいえ、AIの学習する画像データの出どころに「道義的」な問題がまったくないと言ったら嘘になる。違法アップロードサイトからも集めた画像で訓練されたAIを使うのは(AIヘビーユーザーの私でも)気持ちのいいものではない。
エドワード・ジェンナーは、使用人の息子に牛痘と天然痘を接種するという人体実験を行った。現代の基準でいえば、今あるすべてのワクチンは非道徳的な研究の子孫だといえる。それでも、ジェンナーの非道徳性を理由にワクチンを否定する人は滅多にいない。トロッコ問題を計算した結果、益が勝るからだ。
もちろん、ジェンナーの人体実験の被験者は遠い過去の少年一人なのに対し、AIに学習データを利用されてしまうのは現代のすべての絵描きだ。これをまったく同じだと論じるのは無理がある。とはいえ、〝トロッコ問題〟として捉えると、その構造には類似点がある。と言えなくもない。
今の科学技術では、どう逆立ちしても交通事故はゼロにはならない。ではなぜ、自動車は禁止されないのだろう。自動車メーカーは(もちろん望んでいるわけではないが)自分たちの製品でアホをやらかすやつがいることを分かった上で、それを販売している。私たちの社会は、なぜそれを許容できるのだろう。
ある技術の倫理的善悪と、私たち一人ひとりの感情的な好き嫌いと、社会にもたらす損益とは、それぞれ別レイヤーの問題だ。さらに実現可能性の問題もある。「禁止すべき/普及すべき」という結論が出せたとして、その結論に実現可能性がないのであれば、それは机上の空論にしかならない。悲しいけれど。
画像生成AIを「単なる贋作製造マシン」だと捉えている人には、私の言葉は届かないかもしれない。私は経済史が大好きな人間なので、モノを考えるときにそれを参照してしまう。(画像生成に限らず)AIは、活版印刷や蒸気機関、鉄道、写真、映画、電子計算機に匹敵する発明だと、私は捉えている。
鉄道以前の世界では、馬よりも速く地上を移動できる手段はなかった。日本標準時のような統一された時刻は存在せず、町や村によってバラバラだった。兵士を前線に送るまでに何日もかかり、野菜や魚やビールは生産地の近隣でしか消費できなかった。しかし鉄道は、すべてを変えた。
高精度の腕時計を身に着けて、分単位でスケジュールを組んで働くという現代人の姿を、鉄道以前の世界の人々は想像できなかったはずだ。駅馬車はときには数日単位で遅れることもあった。分単位の予定を立てることなど不可能だったし、立てる意味もなかった。
画像生成AIの登場は、ほんの序章に過ぎない。この先の半世紀で、私たちは鉄道の登場と同じかそれ以上の極端な変革を味わうことになるはずだ。Midjourneyがバズった7月末、私たちは2ヵ月後の今の状況すら予想できなかった。これが10年後には一体どうなっているだろう?
鉄道が登場した頃の農夫がAppleウォッチを想像できなかったように、今の私たちには未来が分からない。ただ「予想できないほど世界が変わってしまう」ということだけは分かる。画像生成AIは(そういう使い方もできるけど)ただの贋作製造マシンではない。鉄道のような「何かの始まり」だと、私は思う。
〝トロッコ問題〟を解いた結果、私は画像生成AIを使っている。「悪い結果」と「もっと悪い結果」とを比較して、マシなほうを選ぶという功利主義に従っている。たとえ法的に問題なくとも、今までの私たちの慣習からいって、画像生成AIには道義的な気持ち悪さを覚える。それでも、もはや無視はできない。
もはや無視できないからこそ、できるだけ多くの絵描きさんに画像生成AIを使って欲しいとも思っている。プロアマは問わない。画像を学習されるだけの被害者〝のような〟立場に甘んじるのではなく、AIを味方につけて乗りこなす騎士になって欲しい。AIしか使えない画力ゼロの雑魚をなぎ倒して欲しい。