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近年の社会には、設計主義的な発想が強くなっているように見える。つまり、特定の誰かが作った新たな...

近年の社会には、設計主義的な発想が強くなっているように見える。つまり、特定の誰かが作った新たな考え方や価値観を急速に社会にインプットして、理想に向かって社会を一気にアップデートしようとする考え方(人間の理性で社会は合理的に設計できる)である。

社会の中で生活する人たちは、否応なしにその特定の人たちが作った考え方や価値観のアップデートを迫られる。

その人たちは、社会の中に不合理や不正義を見つけると、それを修正するというよりも、絶対に排除すべき悪として神経症的に攻撃する傾向がある。

近年よく語られるキャンセルカルチャーも、その一つの現れだろう。

その過程では、まだ十分に検証されてもいない特定の価値観が、あたかも絶対的な正義であるかのように扱われる。

そうして自らを「正義」の側に置くことで、相手を「不正義」という単純な構図を作り出す。

そこでは、自分が正義の立場に立っているという感覚が生まれ、相手に対して容赦ない攻撃を加えることも正当化されるし、推奨される。

そして、その攻撃を通じて一種のカタルシス、つまりスッキリした感情を得ている。

でも、本来社会に必要なのは、そうした過剰な正義感ではなく、「異なる価値観を許容する寛容の精神」(ほどほどにする)ではないだろうか。

そもそも、本当に人間は社会を合理的に設計できるほど賢いかといえば、多くの人はそんなに賢くない。

人間はしばしば思い込みや感情に左右される存在だ。だからこそ、保守的な発想では、社会は設計図を描いて一気に作り替えるものではなく、老舗の鰻屋さんが、鰻のタレを継ぎ足し継ぎ足しで作っているように、少しずつ変化していくものだと考える。

長い時間の中で培われてきた常識(時間による検証を経ている)や慣習を尊重しながら、問題があれば徐々に修正していくという姿勢が大事だと思う。

社会はコンピューターのOSのように簡単に書き換えられるものではない。理屈だけで作られたルールで急進的に社会を設計し直そうとするよりも、人々の生活の中で培われてきた常識や経験を踏まえながら、少しずつ変えていく方が、結果として多くの人にとって居心地のよい社会につながるのではないだろうか。

@lawyersuzuki

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